【手書きの美学】過去は後から生産することはできないから

カフェで書く手帳時間

将来のことを考えて、先回りしてあれこれ考えていると、今を見失うことがよくあります。

たとえば、データ化、ペーパーレス化の流れ。
そういえば、いつの間にか写真の現像も頻繁にしなくなりました。

スマホが必須の今、いつでもどこでもメモや日記が簡単に書けるけれど、同時に手帳やノートも私には決して手放せないアイテムでもあります。

「手書き」という動作、紙の上に書くあのシュルシュルとした感触で書く筆記感は、デジタルにはまだ追いつけない分野です。

自分の感情や、気持ちの記録をどう残そう?
あとで手帳やノートを見返したとき、どうしたら瞬時に「いまこの時」に戻ってこれるだろう?

そう思って、ipadに手書きで残すことも考えました。
ほぼ日手帳やモレスキンに書いたことを、すべて写真にとってEvernoteに残すこともやりました。
手書きにはない、検索性の良さを求めて。

でも、なんでだろう?
しっくりこない。

そう。
見返すのがデジタルじゃダメなのです。
自分で書いた文字、その紙面、折り目、汚れ、書き損じ。
それらを指先で感じられないと、意味がないのです。

意識は、記憶は、感覚は、
そのときの空気をたっぷり含み、そのとき触れていた紙でないと、きちんとしたルートで戻っていけない。

手書きは好きだから、アナログ感はどうやったって自分からは抜けていかないのです。
だったら、無理してデジタルに焦点をあわせなくていいのかも。

デジタルやアナログだけじゃない。

父と母と過ごしたあの時代や、
楽しくて仕方なかった学生時代を「過去」と諦めるのではなく、

自分のなかにじっとりと消えないように、余韻を残すようにして生きていくのは決して後ろ向きなことではないのだと感じます。
(過去は今から生産できないものだから)

過去(思い出)に、
温められながら、守りながら、
今をみつめて生きればいい。

それが、自身をしなやかに保つための秘策になるのだから。

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