writer:まゆねね
family:夫・娘・息子と4人暮らし
気楽に始めてみました!
と言いたいところですが、いろいろな想いを抱いてこのサイトを開設しました。
私は一生懸命に書きますが(当たり前です、笑)、みなさんにはお気軽に読んでいただきたいです。
人生をかけた壮大な夢を持つこともすばらしいけれど、
手を伸ばせば温度を感じることができる、
そんな少し先の距離感にある幸せを追いかけていく暮らしも、悪くありません。
まずは自分の指先を目で追う、
足元の花を確かめる、
そこから始めてみるのも良いのではないかな、という考えを軸に文脈をつづっています。
この『百年のひとつ』というサイト。
どんな人が書いているのか、知っていてもらえた方が親近感を持ってもらえるかなと思い、ここを開設しようと思った過程を書いてみようと思います。
少し長いですが、お時間のある時に少しずつ読み進めていただけたらと思います。
これが私の生きる道(まだまだここからがいいところ)
人生はいろいろなことがあります。
その中のほんの些細なことを経験して、また戻ってくることができました。
辛く苦しいこともありますが、これらを経験だけで終わりにせず、必ず今後の人生に活かしていこうと思っています。
》人生はハンモックのように(当サイト記事)
一番大切なものってなんだろう。
私は、文章にたずさわる仕事をしています。
書く仕事をしている以上、オファーがあればクライアントの要望に応えることに自分の時間のすべてをかけて全集中する、それがライターの正しい働き方だと思っていました。
(クライアントの理不尽な要望にも応じていました)
多様なスタイルの文脈を経験し、書ける文章の幅を広げ、執筆業としての深みを増し、すべてが自身の経験値に結びつけることができると信じていました。
また現実問題として、物価の上昇などの社会背景や子どもの学費など、「少しでも蓄えを」と考えないわけにはいかない状況でもありました。
だから、常識の範囲内でどんな仕事でも受け入れ、家庭や自分のプライベートの時間が多少減っても、それは仕方ないことだと納得していました。
納得しているつもり・・・でした。
しかし、それは私の望む人生とは違うことに気づきました。
一生懸命は誰のため?何のため?
一生懸命に何かに取り組むのは、とても気持ちのいいものです。
達成感も生じ、喜んでくれる人の顔を見ると、自分も誰かの役に立っているという自尊心にもつながります。
クライアントの理不尽な要望(依頼されたものを書き終えようかというタイミングでの、文字数変更やコンテンツ変更など)にも、応じていました。
揉めごとになるのが嫌で、自分が折れれば平和に済むと考えていたからです。
けれどそれは、自己を犠牲にして作り出した「ニセの納得」。
結果として、周囲に気を使うことに疲れてしまい、自分のことや、自分の大切な家族や友人を犠牲にしてしまっている現実を突きつけられます。
もっと子どもと接したい
家族の時間をもっと確保したい
一生懸命は誰のため?何のため?
自分の心が満たされなければ、自分の大切なものを守るどころか、迷惑や不幸を呼び寄せてしまうのだ、といまさら気づいたのでした。
自分のマインドを温めて周囲を眺めるゆとりを持つことが、望む人生の流れを作り出すのだ、と思い知らされる現実を突きつけられたのでした。
2020年の初夏。
突然、言葉が思うように出てこなくなりました。
2年間治療をしました。
なかなか合う薬が見つからず、薬の副作用に悩ませられました。
(感情の喪失、味覚の薄れ、無力さ…など)
» » » ★
この出来事が、私がそれまで思い込んでいた幸福感を一転させました。
表面から内面へ
自分自身との距離を、はじめて本気で考えた出来事でした。
私の心の癒しは、
・カメラで写真を撮る
・思ったこと感じたことを言語化してみる(手帳やノートで遊ぶ)
・ぼんやり考えごとをする(ひとり時間)
・気心の知れた人との時間
・森林浴
・書店めぐり
です。
当時は、それらの時間をすべてライティングへあてていました。
心と体を休めるはずの時間を、心と体が緊張する時間へと自ら向かわせていたのでした。
自分の内面を整えることは、二の次にしていたのです。
これは優先順位が違うよね、ということです。
表面の(見える部分の)自分がどんなに一生懸命に動いていても、内面の自分が喜ぶことをおざなりにしていたため、無理に両方の自分を合わせようとして疲労が重なるばかり。
そして、いつの間にか声にも出せないほどの負担を背負ってしまっていたのです。
このことをはっきり自覚できてからの私は、「幸福度は、自分の大切にしているものが基準となる」と確信しました。
つまり「価値観」です。
この気づきから、私は自分が大事だと思うことをノートに書き出しランキング付けをしました。
改めて自分の書いたリストを眺めてみたところ、ほとんどが「成功だけでなく失敗も含め、後悔のない人生を生き切る」という意味へ繋がるものでした。
それは「充実」であり、
つまり「時間」と「心」と「健康」だということも見えてきました。
最近は「がんばらなくていい」「無理しなくて良い」、そんな空気が主流となりつつあります。
私は「誰よりもがんばりましょう」「できる限りの努力をしましょう」で育った世代なので、今のこの空気は心にも体にもやさしくていいな、と思ったりします。
ただ、それをはき違えてはいけないな、とも感じています。
前述したように、私は自分でも気づかなかった積もりに積もったストレスに巻き込まれ、深く考えたり感じたりすることが困難になり、言葉も不自由した時期がありました。
感情が動かず何も感じず、目的もなく、無気力で時間を刻んでいたあの頃は本当に無機質で、記憶もほとんどまっさら。
あったはずの時間が飛んでしまっているのです。
そのため、外側から見たらゆるゆるとした時間を過ごしているかのような一時期はありましたが、本人にしてみればあれほど深い「無」で過ごす辛い時間はありませんでした。
あの頃の時間は、取り戻すことができません。
しかし、私に与えられた一生の時間の一部を追いかけることはできなくても、これからの時間を充実させていけば、今よりも悔いは少なく済むはずです。
そこで、
チャレンジやがんばることを詰め込むのではなく、
だからと言って余白の中だけで呼吸するのでもなく、
五感を感じることの価値を自分に与え、
喜んでそれを受け入れ、
人間の及ばない自然の力を気持ちよく吸い込む。
そして考えるべきことはきちんと考え、想像し、思考を巡らせ、人間らしく生きる。
そんな時間の過ごし方をしたい、という気持ちになりました。
私なりにこれらの暮らし方・感じ方をまとめているのが、当サイト『百年のひとつ』です。
私たちを焦らせるものの正体
ここで、私たちが感情を乱し、焦り、悩んでしまうことの原因を考えてみます。
真っ先に思い浮かぶのが、SNS。
情報過多は以前から話題となっていますが、世の中は情報戦がすべてと言っても過言ではありません。
活発なSNSにより、多くの意見に触れるメリットがある一方、人の数だけある価値観に翻弄され、自信をなくしてしまいがちです。
それまで自分の中で不動だった価値観までも、揺らいでしまいます。
インスタグラム、Twitter、Facebook、最近ではスレッズなど、次から次へと新しいつながりの形が生まれています。
みなさんも、一度はSNS疲れというものを経験していると思いますが、SNSから離れる勇気を持つことの困難さもありますよね。
そんな環境の中、私たちはどう自分をコントロールしていけばいいのでしょうか。
自分を満たすものを知る、ということ
自分自身が内面に持っているものを、もっと理解し、信じたい。
そのために「自分を知る姿勢」を整えることから始めます。
コンタクトやメガネを外し、
イヤホンを外し、
マスクも外し、
素の状態で自分の五感に頼る時間を、定期的に確保することにしました。
以前から好きだったカメラも、もっと丁寧にシャッターを切るようになりました。
自分を知る。
これは、おそらく永遠の課題なのだと思います。
どこまで行っても、一番わからないのは自分なのかもしれません。
だからこそ、人生には後悔があり、希望もあり、やり直しの期待もあり、わん曲や屈折が存在する・・・、
そう思ったりもします。
正解もゴールも完成もない、それゆえに自由にトライできる。
それが、自分という洞窟を探検する人生ゲームなのです。
未完のドキュメンタリー
『百年のひとつ』を立ち上げ、少しずつコンテンツを書きためています。
言葉にしにくい、少しナイーブな部分を出しつつ、人生を充実した気持ちで組み上げていこう、というなんとも表現し難い抽象度の高いサイトです。
カリッとした明白な手段を示した記事は少なく、あくまでも日常の中に嬉しい楽しいを見つけ、感じていこうね、というものです。
読む人のイメージにお任せする構成をとっています。
自由に受け入れてもらうことを心がけて書いているからです。
こうして発信する以上、『百年のひとつ』が多くの人の目に留まってほしいという気持ちはもちろんありますが、そうでもない気持ちも少しあります。
アクセスの数ではなく、読まれる濃度を求めます。
大勢でなくても、共鳴してくれる人のもとに届けたいです。
信頼でつながれる場を、と願っています。
『百年のひとつ』は、いつ読んでも大丈夫なサイトを目指しています。
刺激も少なく、即効性のあるコンテンツではありませんが、ぜひ、それぞれの心の温度に調整して読んでいただけたら幸いです。
ここまで長々と(本当に長々と)読んでくださり、ありがとうございました。
これからもよろしくお願いいたします!
百年のひとつ
人生100年。
今日あったことは、100年の中でたったひとつの唯一の出来事です。
100年にひとつの、モノ・コト・キモチ。
100年後も残したい、モノ・コト・キモチ。
毎日が
すべてが
「百年のひとつ」の記録です。