やさしさ遺産

キッチンでひとり、静かに読みたい小説

出汁をとるときは、鍋の前に居続けることが多い。

沸騰させないように温度を保ちながら、1時間ほど煮出す。
ずっと凝視しているわけではないけれど、そばにいて離れないでいるようにしている。

この、キッチンでの「待ち」の時間は、私にとって何っていいがたい意味のある時間となっている。

『ねぎを刻む(江國香織)』の世界観にひたる

江國香織さんの作品で『ねぎを刻む』という小説がある。
(『つめたいよるに』に収録)

孤独感にさいなまれながら一心不乱にねぎを刻む、という短編小説。

自分が置かれている場の空気と、まん延する孤独感と、認知や肯定、自己否定。
いろんな感情がプレスされていき、最後にねぎを刻むシーンが登場する。

こまかく、こまかく、ほんとうにこまかく。
そうすれば、いくら泣いても自分を見失わずにすむのだ。

『ねぎを刻む』江國香織

小さな食卓をととのえながら、私の孤独は私だけのものだ、と思った。

『ねぎを刻む』江國香織

AM 3:00
息子(食物アレルギー)の給食の代替えのパンを焼くときも、

PM 17:00
子どもたちが帰ってくる少し前、こうして出汁をとるときも、

ひとりキッチンに立つと、この小説を思い出す。

鍋のなかで昆布がだんだん大きくなるのをみながら、ときおり『ねぎを刻む』を思い出し、ひとり静かなキッチンに立つあいだは、自分の内側と対話しているようにさえ思える。

この小説のキーになっている「孤独」

私が孤独感でいっぱいになっているときって、どんなだろう。
そんなことを考えてみる。

自分が見ている世界と自分の心が離れてしまっているとき?
「そうじゃない、そんなはずじゃない、私だけ?」と思うとき?

それは、つまりきっと、外の自分と内の自分の呼吸が合っていないときなんだと思う。

こんなことをふわりと思い、自分を探り、
今日も出汁をとりながら、献立を何にしようか考える。

『ねぎを刻む』を読みたゆたう

『ねぎを刻む』(江國香織)

この小説には、くわしいストーリー背景の描写はない。

「私」の“ねぎを刻む”その行為一点に向かい、目や耳や体にひびく孤独の感情を自分の中でふるわせ、言葉を生み出し、それを惜しみなくポトポト落としていくように、ゆっくり淡々と進んでいく。

このお話は短編集のなかの一編で、表題作というわけでもない。

けれど、多くの人が『ねぎを刻む』が印象に残ると語るのは、この小説が「より自分にちかしい客観」で読むことができるからだろう。

ねぎを刻むことと孤独をリンクさせる人は、少ないかもしれない。
しかし、ねぎを刻むのは誰の日常でも頻度が高い。

読者は、物語を触感レベルで(肌触りで)感じ、言葉に起こせないものまでをも、個々の中で映像化させてしまうことができる。
この『ねぎを刻む』は、そんな自由を私たちに与えている。

その魅力が、多くの人の心を捉えているのだ。

これは江國さんにしか書けない。

『ねぎを刻む』は活字というよりも、

他者でありながら心を重ね、つかず離れずの距離感でいながらも放っておけない、どこか離れがたい「映像」小説なのだろう。

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