【心が体をハグする日】本当の心のゆとりを横断歩道に見る

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先日のこと。

横断歩道を杖をついて、ゆっくり渡っているおばあちゃんがいました。

焦りの気持ちはあるだろうけれど、足はそう簡単に早まりそうにありません。
横断歩道の信号はまだ点滅していなく、歩いて渡っていていい範囲です。

ところが1台の車がクラクションを鳴らします。
待ち切れないのでしょうか。

おばあちゃんは不満そうな表情ひとつ浮かべず、やわらかい表情の「ごめんね」という笑みでお辞儀しながら少しペースアップし(おそらく彼女のできる限りのペースアップだと思います)、道を渡っていきます。

車を運転しているのは若い男性でした。

私はそのおばあちゃんの落ち着きに、小さく感動しました。

若いときは誰でももがきます。
自分が何者で、何をしていいのかわからないから、とにかくもがくし、やみくもに動く。

ところが年齢を重ねると、そんな自分がゆったりおおらかになってくるのがわかります。

これは動作が「のろくなる」というのではなく、何が自分に合っていて、自分が何をチョイスすればいいか感覚的にわかるようになる、ということです。
だから、無駄なもがきはしない。

水の中で溺れそうになると、無意識にバタバタしますよね(溺れないように)。
例えるならあれは、まだ若く、肌にあたる社会の波が不安定で溺れそうになるのを必死で耐えているということ。
若いことの証なのです。

それが30歳、40歳と年齢を重ねることによって、これまでの経験と自分の理解が「浮き輪」になり、バタバタするより力を抜いて任せてる方が「体が浮いて安全」という知恵が備わってきます。

だから、大人はバタバタしない。
「任せる」というゆとりが生まれるのです。

このゆとりが、バタバタしている側(つまり若い人)から見ると「遅い」「ゆっくり」に見えるのだと思います。

クラクションの車の運転手は若いのです。
つい、ざわざわしてしまう。
「早く早く」と気持ちが前のめりになる。

一方おばあちゃんは、せっかちは若さの証だということを知っているのです。
だからあの横断中も、煽られているのに笑顔がにじみ出ていたのだと思います。
(ひだまりみたいな、お日さま笑顔でした)

人生が100年だとしたら、いま私は中間あたりを歩いています。

先ほどの若い運転手の胸のざわつきを理解しつつ、これから私も迎えるであろうおばあちゃんの領域への道程を予想します。

ー 時代を踏む足と、その足裏でとらえてきた経験と感覚と、そこへ乗せられた感情と。
生きてきた時間の層が心のゆとりを生むのかな ー

時の経過で思い通りにはいかなくなった体を、同じく時の経過で養った心の経験値が、おばあちゃんをかばうように包んで見えた出来事でした。

人の一生って美しい。

最後に、殿村進さんの言葉を。

『女の一生』

二十代は 美しく
三十代は 強く
四十代は 賢く
五十代は 豊かに
六十代は 健康に
七十代は しなやかに
八十代は つややかに
九十代は 愛らしく

そして
いぶし銀のように
美しい百歳へ

『男の一生』

二十代は 志を高く
三十代は 仕事に燃え
四十代は 功を焦らず
五十代は 寛容をくいて
六十代は 引き際よく
七十代は 時を遊び
八十代は 自由を楽しみ
九十代は 悠々自適に

そして
いぶし銀のように
幽玄の境地の百歳へ

またたくさん本を買いました。
時間をかけて、刻むようにゆっくり読んでいこう。
穏やかな今日にありがとう。
平和な明日へありがとう。

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