最近『ニコマコス倫理学』を再読している影響なのか、哲学が気になります。
書店でも、たくさん平積みされた哲学書の表紙に目も止まりがちです。
ハンナ・アーレント関連の本が以前に比べ、多くなったような気がしました。
何年か前にハンナ・アーレントの映画を視聴した時は、今ほど書籍が見つかりませんでした。
その映画は内容のインパクトだけでなく、映画を見るまでの私の内面の動きが普通でなかったので(!)、以前その様子を記事にしたことがありました。
今回はその記事をこちらに移行し、加筆し、刺激を受けた私のその後を綴ったものです。
「考えることで、人間は強くなる」という信念を持ち、激しいバッシングを受け孤独の淵に立たされても、真実を見ようとするハンナ・アーレント。
その勇気と強さを映画で観たいと思いたってから、もう随分たちます。
(日本では2013年に岩波ホールにて公開だったようです)
観たいけれど、どこかでブレーキがかかるこの映画。
こんなに構えのいる映画は初めてなので、心境を活字で残しておこうと思いました。
ハンナ・アーレントという人物
ハンナ・アーレントは、ドイツ出身のユダヤ人哲学者です。
第2次世界大戦中にナチスの強制収容所から脱出。
その後、アメリカへ亡命しました。
ユダヤ人として激しい向かい風でありながらも、ドイツから亡命を望むユダヤ人を援助する活動をしていました。
しかし、ドイツへの一方的な批判に偏るのではなく、社会背景の作り出した思考や規則をも批判していました。
ドイツで強烈な権力を持つヒトラーを作り出したのは、特に考えもなく知識も持とうとしない、自分が何を大切にしたいのかも考えない曖昧な人たちが、流され集まった巨大社会なのだ、と。
(このあたりは私個人の読み取り方です。いろいろな説もあり、とらえ方も多様なので文脈化するのがとても難しい!)
私が望むのは、考えることで人間が強くなることです。危機的状態にあっても、考え抜くことで破滅に至らぬよう。
ハンナ・アーレント
彼女のこの言葉が示すように、自分の考えを持つことの大切さを主張したのでした。
「思考を停止することが残虐を生み、考えることで人間は強くなる」と。
「自分の人生すべてを深く考え続けるのは疲れてしまうけれど、だからといってなんとなく過ぎていく日々に流されていていいのか…」
日々もどかしさを感じていた私は、何年も前からずっとこの映画を観たいと思っていました。
鑑賞をためらう気持ちと好奇心
この映画を見る前に、どんな話なのか少しリサーチをしていました。
(ネタバレを避ける程度)。
そして調べていくうちに、「観たい」という気持ちと「やめておこう」という気持ちが入り混じっていきました。
もしも観て、後に内容を忘れてしまうようであればそれで良しとしても、観たあとに何か自分の中に強烈に残るものがあった場合、それを消し去るのは難しいのではないか。
つまり、観てしまったあとの自分の内側にどんな変化が起こるのか、不透明すぎて怖かったのです。
(とはいえ、何か影響を受けそうな自分を感じていたのでしょうね、こんなに心配しているのだから)
戦争もの映画への距離
これまで、ハードな戦争系は距離をおいてきました。
「誰が悪いのか」
「責任はどこにあるのか」
を問われる作品には、あまり近づかないようにしていたのです。
人の思考や感情は、そのときの自分をとりまく環境に大きく影響を受けています。
たとえば、同じ出来事に対しても日本人である自分と、もしもアメリカ人として生まれていた自分とでは、考え方も捉え方も違うはずです。
もしも明治時代に生まれていた場合と、現代を生きる感覚はまるで違うからです。
「私」を動かすものは何者でもなく自分自身なのですが、自分の思う方向と行動が一致することは稀です。
少なからず、一点でも何か曇りを抱えながら決断しなければならないときもあります。
ましてや、この作品の背景はナチス。
その時代への知識が浅い私でも、多くの命がことごとく捨て流されてしまったことはイメージとして焼き付いています。
と、こんなことを頭の中で巡らせながらも「観てみたい」が先行し、観てみることにしました。
鑑賞後の私の視点
予想したように、体力のいる重圧のかかる映画でした。
まだまだ息切れの残る視聴後ですが、自分の心臓へと送り込まれるひと呼吸ひと呼吸が、「時代」をすり抜けてきた生命力のように感じます。
命のなかに宿る「考え」。
そして「理解すること」「理解してもらうこと」の相互。
過去からのたくさんの命が紐づいて、奇跡的に今ここに「私」があります。
自分の内側に生まれた想いや考えを、さげすむことなく大切に、そして柔軟に守り抜いていこう。
そんなことを思いました。
動き出した歯車
そして、私に訪れた変化。
それは、ようやくある本を手にとったことです。
イメージが先行してなかなか踏み込むことができなかった名著。
『夜と霧』です。
かつて心理学科だった私は、先生からも「心理学を学んでいるのなら必ず読むべき。読んで当然の本。」と言われていたのに、手を出せずにいました。
ハンナ・アーレントの映画の存在を知り、
悩みに悩んだすえ映画を鑑賞し、
程なくしてふわっと哲学の波がきて、
再びアンナ・アーレントを思い出す。
この一連の川の流れの支流にあったのは、『夜と霧』を読むことでした。
今というタイミングで『夜と霧』を読む。
ここに何か意味はあるだろうか?
あるのだろうと思う。
視野に入りつつ何年も読むことを拒んできたのは、今、この時点で読むためだったのかもしれません。
ゆっくり読みはじめていきます。