最近は、書籍でもネットでも言語化の話題が飛び交っています。
「押せ押せ言語化」「行け行け言語化」
言語化ブームです。
思っているだけでは前に進まず、言葉にしなければ伝わりません。
確かに、正確に伝えるためには言葉の選び方と話の順番が大切ですよね。
でも、思ったことすべてを言語化する必要があるのでしょうか?
自分の中に未完成に留めておくだけでいいこともあります。
無理に頑張って言語化しなくてもいいのかもしれません。
わたしにとっての「言語化」ってどんなだろう?
考えてみました。
日記を書く理由とその楽しさ
日記やノートをなぜ書いているのだろう。
スッキリしたいから?
頭の中を整理したいから?
忘れないようにするため?
書いてるとなんとなく気持ちいいから?
全部です。
手で書くと頭で考えながら書くので、先へ先へと考える頭の速度と、手で書く速度が合わなくてズレてきます。
そのズレが「整え」の間(ま)を作るのです。
私が書くのが好きなのは、まさにこの状態。
ふわふわと体の中を駆け回っている思考や気持ちが、静かにそれぞれの持ち場へ着地する感じ。
片付く感じ。
園児のように四方八方へ走り回っている感覚が、中心に戻ってくる感じ。
この感覚が爽快なのです。
自分のための言語化の技術
記録として残す言葉は正確さが大切ですが、自分のための記録であれば、言語化の種類がちょっと違います。
今この瞬間の気持ちを忘れず覚えておきたいから、細かく状況描写を書いていく。
でも、思いが強いほどどんなに細かく書いてもキリがありません。
(子どもに初めて「ママちゅき」と言わせたとき言われたときなんて、果てしなく綴っていました。)
私は日記やノートなど自分で書いたものを高確率で見返すので、思い出せるように常にフックを用意しています。
ここに言語化の技能が必要となってくるのです。
人に伝えるための言語化ではなく、いつかの自分に向けての言葉です。
ここが一般的な言語化との違いです。
未来の自分に届きやすいイメージを言葉にして残します。
自分にしかわからない文や単語で良いのです。
五感で感じる言葉の力
イメージを書くときは、日付・だいたいの時刻・場所など具体的な情報の他に、できるだけ感覚・感情も添えていきます。
五感です。
匂い、肌感、見えるもの、聞こえてくるもの、あんな感じ、こんな感じ…。
感覚というのは不思議で、頭では忘れてしまっていても体が覚えています。
昔よく聞いていた曲を久しぶりに聞いて、胸が熱くなったり、偶然耳に入ってきた音楽が小学生の頃によくテレビで流れていたCMの曲だと気づいてハッとしたり。
夏休みの匂い、入学式の風の感じ、授業参観日の教室の特別な午後の空気。
ふと巡ってくること、ありますよね。
とはいえ、「感覚を言語化する」のは難しいです。
出来事を記すだけでなく、ぼやっとした感覚を文字にするわけですから。
けれども、相手は他者ではなく自分。
人に伝えるのではなく自分に向けた感覚だから、まあわかるだろうくらいのラフさでバンバン書いていきます。
(もし後で読んでやっぱり意味不明なら、それはそれで面白い。必死で書いた自分を愛おしく思えます。笑)
このように「自分が見返すための言語化」となるとちょっと事情が変わるので、気持ちのハードルが下がり、構えなくて済みます。
(つまり、たくさん書けます)
そこで私は、自分が言語化するためのルールブックのようなものを作っています。
自分の感覚を文字にするための、クセや視点を研究していくんです。
自分流セオリーノートのようなものです。
(“自分流”とか言っていますが、誰もこんなことしていないと思うので、競技人口が一人のいきなり全国大会みたいなものですね。笑)
これも立派な自分探求です。
自分に合う言語化スキルを磨くこと
話は最初に戻ります。
言語化は無理にしなくてもいいのかな、という話。
一般的に言われている言語化は、相手に伝えるための大切なスキル。
上手なコミュニケーションで、相手との距離を優しく保てる技能です。
私がここで挙げている言語化は、自分のためのもの。
言語化は抽象的でO.K!というお話です。
むしろ「おいおい、そんな形容って(汗)」みたいな方が想像も膨らんだりします。
書いている時も、思い出す時も。
正確に頭で再現する記録は「具体的」に。
体感で再現する記憶は、“なんとなく”の「抽象」な言葉に任せる。
こんな風に「感覚を残すための言語化」を強化中です。
そのために私ができることは、
・小説やエッセイを読むこと
・映画を観ること
・周囲の人をよく観察すること
・いろいろなシーンや時代の気持ちを味わうこと
…なのかな(模索中)
言語化のような言語化でないような、私の言語化論でした。